Quantcast
Channel: Yassie Araiのメッセージ
Viewing all 1196 articles
Browse latest View live

朝日記151015  表現の曖昧さについてとHeideggerへの読み筋をみつけつこと

$
0
0

朝日記151015  表現の曖昧さについてとHeideggerへの読み筋をみつけつこと

10・15おはよう
みなさん、おはようございます。

徒然こと
今朝は紅白色に金色の縁の雲に見とれました。
ラジオ体操もTシャツに長袖シャツで温度調節したり
選択に迷います。ずいぶん日も短くなりました。
道に落ちていた柘榴の実や花梨の実が片付けられ、
秋萩が勢いよく張っていたその元枝も始末され、まだ金木犀のかおりがのこっていたりです。毎朝ほぼ同じ道筋でスケッチの対象を探したりしているのでちょっとした季節のかわりの気配を目にします。 柑橘の剣のような葉ぶりや、柿の実のたわわな枝ぶりなど、それをいかに描くかをながめるのもおもしろいです。 この数日は、柳の木炭でさっと描き、家に帰ってフィクサティフのスプレーをかけ、定着させます。
この霧の芳香が毒だと家内は警戒します。 すこし絵を大きくするために、同じものを描くのは如何なものか、抵抗を感じていましたが、スケッチしたものを横において、意を決して描くと 線の強弱が生き返ってきて うれしく感じることもあります。 大学の図書館で古い本で「曖昧さ」について書いてある本があって、あまり読む気もなかったのですが、結局手にとりました。 英国人の著で、曖昧に表現することから生まれる効果などが、詩を中心に解説し論じていました。そのなかで、英国の風景画家コンスタンチンのことが、目にとまります。かれは、同じ絵を三つ描くのですが、最初のは素描レベルのもので、つぎに、それを基にし制作し彩色したもの、そして最後に作品として制作したものです。そして 後世に評価を得たものは、かならずしも最後のものではなく、二番目のものが多かったというようなことであった。
そんなことでした。 また手に取ってみようかとおもっています。
(龍口寺にて)

徒然こと 2
institutionとagencyについての資料をつくって、総合知学会の月例会で話をしました。質疑をいれて3時間で 声帯のリハビリもさることながら、体力がものをいいます。その質疑の展開で、スタンフォードの哲学者John Searleを使って、存在論と認識論との接合的な話し、カントの哲学のフレームに帰着させるような話をいたしました。
質疑のなかで、SearleのいっていることはHeideggerの言っていることとすべて同じだという指摘がありました。 SearleはHeideggerを引用しているのかというあたりで、答えて読んでいないのではないかといって、軽率さを露呈してしまいましたが、米英系は彼をナチ主義との関係で敬遠している経過もあり、妙に納得したひともおられました。
二日ほどまえから、図書館から借りていた「存在と時間」をとりあげ、読んでいます。「現存在」とか「実存」などがでてきて いつもは退屈するのですが、前者を「agency」とし、後者を「institution」と置きなおして読んでいくと、おもしろいほど 話の筋が見えてきて、退屈ではなくなりました。そんなことをご報告いたします。

(江ノ電江の島駅)


朝日記151017  制度劣化(Absent of Institution)ということ と今日の絵

$
0
0

朝日記151017  制度劣化(Absent of Institution)ということ と今日の絵

10-17おはようございます。

 (働く JR品川 Yamanaka 君)


なんとも、重苦しい事件で ことばに出すのも憚るくらいです。 なぜ憚るのかと自問したくらいです。
特に、技術者倫理が前面にでた成り行きが問題の根の深さを感じさせます。
フォルクスワーゲンの環境基準への不正開発設計、横浜マンションの基礎パイルの工事の不良、そしてこの東洋ゴムの面震ゴム品質性能不良品出荷など、シンドラーエレベータの保守不備など最近は報道されていませんがタカダのショックバルーンの製品安全性など、思いおこされます。
私のつとめた会社では、かつて有機水銀公害訴訟、健康・サプリメントの製品責任訴訟などがあり、ながく経営の根幹を揺らし続けたことをおもいだしました。
~~~~
これらは、ひとことでいえば、畏友AT氏のご指摘を待つまでもなく経営そのものの劣化であるとしか言いようがありません。こういう経営の分野は専門家が多いですが、たとえば以下二つが思い当ります;
1.合法的に運営していても、法律が時代に追いついていないことによる事故
2.経営体の価値目標の優先順位、職責の組織システムが目前の恣意的な次元でうごき、全体の一貫性を欠いてしまっていること、それに感覚麻痺してしまっていることに依る瑕疵による事故

思い出しますが、もともと日本の経営は、すくなく決めて、ひとの力でしっかり進めるという文化で、これが運営の安定としてあり長所でもありましたが、同時に組織効率性の点からは短所でもあったとおもいます。これらをうまく、くみあわせての経済大国への離陸でしたが、あとバブルがはじけて1990年代のはじめの組織のリストラクチャーで 結局、背に腹は代えられず、上の「ひとの力」つまり企業文化(職場をまもる)は、相対的に貧弱になったこととおもいます。 JR西日本福知山線の事故なども思い出します。
これをどう取り戻すか、若い人の就活での課題であろうかとおもいますが、いまは人で不足ですが、かれらは如何に考えているか興味があります。

先日、Social Institutionというのをスタンフォード大学のネットで勉強していました。
そのなかに'Vacance(Absent) of Institution'というのがありました。 組織や社会の問題をInstitutiveにとらえて、運営の改善、改変を具体的に担うAgentというとらえ方です。 こういう機能が地域、社会、市場、公共がネットとして隈なく働いて、変革していくという意味でのAgent and Institutionという機能がはたらくというインフラ思考です。この機能の欠落がある、それに気がつかない状態があるということを上の表現で、警鐘していたと思います。欠落を積極的に埋めることを意図している発想であるとおもいました。アメリカらしいと思いました。

技術者倫理としてかたづけられるのは、悲しいですことです。そういう問題もありますが、この問題のとらえ方もOrganization Institutiveに捉えるべきで、 当該者の経営者の発言も、メディアのとらえ方も浅薄な印象がのこりました。
これが 私の口を重くさせたことの第一であったと思います。

朝日記151021 制度劣化ということ(2) VWスペインでのトヨタ方式など と今日の絵

$
0
0

 

朝日記151021 制度劣化ということ(2) VWスペインでのトヨタ方式など と今日の絵

 

おはようございます。

 

徒然こと1  合法化理論 Legitimacy Theorem
ネットで  VW問題について、本当はなにがおきていたのかをさぐるために(Legitimacy VW)でとりあえずながめてみました。
トヨタの自動車のアクセルの糸の欠陥問題としてアメリカの議会に大大的取り上げられ、トヨタのトップの公正な態度が、結局説明責任を果たし 逆に会社の評価を上げました。
今回のVW問題については、その報道内容からすると該VW社の信頼を根本的に損なうイメージとして伝わってきます。経営のトップが,製品欠陥をみとめて辞任したことがその印象を決定的にしてしまいました。
情報の出典を書きませんが以下のような具合です。
*Germanyという名前のミシガンの技術者が昨年来のロードテストで、NOxの基準を満たしていないことを該社に報告していたこと。その結果が本年9月にようやく認めたこと。その間にソフトウエアを作り直したことなどが報じていました。
*BBCのネット解説ですが、そもそもEUでは、アメリカに指摘されるまで、この問題に気の付かなかったことが深刻な問題となっていることは当然理解できます。 
EUとアメリカでのルール化のずれがあったこと、この違いをきちんと位置づけない状態であったことは結局、VWに瑕疵があったことは当然です。それにしても、テストを通すために故意にソフトを改ざんしたかどうかは、真相は不明です。アメリカでは刑事告訴のはなしも起きているようです。
これらが(Legitimacy VW)でのネットでみられる状況です。
個人的な勘で、全く、根拠はありませんが、「ウクライナ問題」や「AIIB問題」でのアメリカからの「仕置き」ではないかと脳裡をかすめました。恐ろしいことで、トヨタの議会公聴会のときでも、アメリカの日本への世論感情次第では、如何様にも方向が動いたのではないかとおもいました。
アメリカは 'State of Unjust'とみずから呼んでいる国でもあります。 刑事的な意図がなければ、Unjustを修正するべく論陣を張ることを由とする社会です。 たぶん、VWは、堂々と立ち合うとことを期待します。

(柿実る)

徒然こと2 VWスペインでのトヨタ方式

*(Pablo Archel and Javier Hsuilos,Carlo Larinaga, Crawford Spence,Social disclosure, legitimacy theory and the role of the state, AAAJ, March 2009)
という解説論文がありました。

https://www.academia.edu/3616240/Social_disclosure_legitimacy_theory_and_the_role_of_the_state


ご承知のように、日本でも各企業がSocial and Environmental Discourse(SED)が発表していますが、これが、ほんとうの問題の姿を現しているかを問い直しについて状況解説しています。資本主義としては当然ともいわれる市場論理中心視座(ブルジュワ主義)を越えて、社会価値が多元化した時代に、企業活動のなかでの経営事象のなかで、問題の本質的が正しく、公正にとらえられ、整合しうるものなのか、という問題意識です。このミクロ構造の問題がマクロ構造への影響問題として、制度論的institutiveに見ていくという視点として’Legitimacy theory(LT)’の研究が表にでてきたようです。
この解説では、一般論のあとで、事例問題として、VWのスペイン工場でのJust-in-Time(JIT),Lean productionに焦点が当てられます。 VWの工場で、トヨタ方式が隅々まで適用されている現状を知るだけでもおもしろいですが、ここでは労使の関係が社会問題として極度に悪化しているという見方を示しています。
生産のマクロ最適よりも、ミクロ最適がビジネスを優位にする方式を追及していくことが、マクロ、つまり生活文化をふくめ社会全体、国のあり方にどのような影響があるのかというLegitimacyの投げかけです。
*はなしはとびますが、目下の話題のTPPの交渉過程で、話題の表舞台には出ていませんが、CSD裁定(Corporate-State Disputes Tribunal)機能をおもいだしました。 一企業のあり方がその国の社会的価値とまともにバッティングしていくことは、これから頻繁に起こるとおもいます。
これもまたLegitimacy Institutive問題といえましょう。
*トヨタ方式など日本の製造業コンセプトは、これからもその存在価値はおおきとおもいますが、しかし見方を代えると、ネガティヴに評価されることも十分に考えられます。
1980年代の日本の製品品質が世界を席巻しましが、その管理方式の理論化が遅れ、結局ISOは英国など他国にリードをゆるしてしまった轍を踏まないよう、Absent of Institutionにならない、Positive Institutionとして先行した知恵を出し、結実していくことが求められているとおもいました。

(大山のみえる散歩道)

朝日記151025 外国の教科書を読む研究会のことと今日の絵

$
0
0

 朝日記151025 外国の教科書を読む研究会のことと今日の絵

みなさん、こんにちは。
わたくしが所属しているHEARTの会での分科研究会が「教科書プロジェクト」をスタートします。
理科の米英系の教科書を実際 読んでみようというもので、お誘いがきました。 以下返事ですが、私のクロニクルとして以下置きます。悪しからずご了承ください。


~~~~~
徒然こと
E様

 おはようございます。
教科書プロジェクト分科会へのご案内をいただきありがとうございます。

2009年来、甲状腺癌での声帯障害で、あまり丁々発止は、得手でなく、なるべく
書き物でお付き合いできればとおもっています。
2011年のときのEさんの「震災復興プロジェクト」No.9で日本の文化や日本人の資質からの
提言作業のときに、メール参加でお世話になりましたが、
もし、同じような参加方式が可能であるならば、多少の研究作業(Reading and writing宿題、KJ法などの図化)のお手伝いくらいは
できるかもしれません。ご指導たまわりたくお願いもうしあげます。

すみません、10月26日は欠席もうしあげます。
みなさまによろしくお伝えください。

目下の所見としては以下です;
この2012年来、「システム思考による目的論理と社会倫理」という課題で研究を継続して、
総合知学会(小松昭英会長)で何回か論文発表をしています。
さて、TPPや安全保障法に象徴されますが、日本はいまおおきな変革期を迎えています。
そしてこの国の曾てない興隆と衰退への分水嶺に差し掛かっていると理解しています。

そのなかでやはり多文化主義Pluralismへの転換が世界のたしかな潮流であります。
この視点を可能にするのは、直観思弁だけでは限界があり、このプロジェクトのような教科書という
具体的な材料を通じての、比較制度論的な視点からの分析し、質疑発信をすることで、
ものごとを筋道が立て、異なる文化圏との共通視界を確かめあう方法が開けるとおもいます。
自らの価値や目的の所在を他国の友人(知識人)のそれと言語・図化によって相対化すること、
つまり論理化し・提言化すること(Institutive)になるからであるとおもいます。
御承知のごとく現下でも、西側の近代史での価値体系が世界を圧倒していますし、日本も明治開国以来その路線を
ひたむきに歩んできましたが、われわれの根底のところでの価値意識は、それこそ意識下の「マグマ」のなかに
潜んでいるようにおもいます。 対象を相対化することは、 意識の顕在化;論理化でありますから
これが 国際的な場を通してのフィードバックとして、日本人および日本社会のidentityを観ることが可能になりましょう。
問題は、それからどうするかということであります。
イルカやクジラの問題のように、根底からの価値の違いで解決のみえない問題であります。
TPPでCSDT(Corporate State Dispute Tribunal)訴訟として、これがさらに項目的に増大することは必至であるとおもいます。
これを社会科学では、共約不可能性incommesurability問題と呼んでいるそうですが、
これを共約可能性に変えていく態度(思想)と方法論の「土俵」が必要となります。

その有力なヒントとして私は スタンフォード大学の哲学者John Searleや青木昌彦(故人)らの
Social Institution(社会制度論)に注目しています。 
特にagentとInstitutionを対としての問題対象への認知(構造、機能、文化、制約)という視点から制度的モデルでとらえて設計へと帰着させる発想とみています。 (「文化」がここに入るところが、これまでのシステム系とは一味違うところです)

そのような意味では、今回ご提案の米英系の教科書をとりあげる実際に目を通すことは、思考の発展性に
期待できるようにおもいます。
すでに、御企画側で多々検討されているとおもいますが、
HEARTは自然科学技術系が多いので、理科の教科書あたりからが、たしかによいスタートとおもいます。
さらいどこに焦点があるか 議論を期待しますが 私の意見としては、とりあえず以下です;
1.科学技術教育 全体のシラバスなどの概観・比較も意味あるとおもいます。
2.初等学校での理科や数学からの入り方もありますが、
3.個人的には、大学での理系基礎過程での応用数学や物理化学などの教科書の比較に興味があります。
4.英語で学会で発表することも視野におくとよいのではないでしょうか。(図表くらいは英語化しておく)

以上。
今日の絵 のどかな海(添付)と
新しい音楽絵画268 variation 希望のささやき です。
https://www.youtube.com/watch?v=_w0n3Ep68rs



ご笑納ください。
荒井

 ~~~~

本朝日記の特別寄稿の音楽絵画は以下です。

No 267Halloween

 

朝日記151027 橘樹住香の大和絵と今日の絵

$
0
0

朝日記151027 橘樹住香の大和絵と今日の絵

橘樹住香(荒井住夫)は日本画家(大和絵)です。 NPO法人の会報の最新号No.83の表紙絵に「年々歳々花相似」として 登場しましたので ここでご紹介します。

 まずは、ご覧じろう。

 

  夜麻登繪 造からの解説

 

 

 HEARTの会 83号の目次紹介

 

 

今日の私の方からの絵(2014秋)です;

 

音楽絵画151028 町田文化祭絵画出展と今日の絵No 269and270Croquis October

$
0
0

 

音楽絵画151028 町田文化祭絵画出展と今日の絵

おはようございます。
すっかり、日の出もおそくなり、また冷涼になりました。

徒然こと
町田文化祭で、今日から三日間 町田市民ホールのギャラリーで絵画展があります。今回は 「のどかな港」と「秋の実二題」のふたつ出展します。
とくに 前者は大学の後輩筋の畏友である安部忠彦さんが,介護の実相をあらわしていて、多分行事ポスターには採用されないであろうと、ほめてくれたあの「叫び」です。今回、A1サイズとしてポスターの専門業者に拡大してもらったものを用意しました。 こういうのはジャンルが絵画となるか、写真となるかですが、内容が基本的に絵画作品なので絵画部門に出します。自分の手での会場とりつけですから、これで行けそうですが、ちょっとControversialです。
午後からの開催ですので 午前中 搬入します。久しぶりの運転ですね。
朝はラジオ体操で そっと知り合いにチラシをまきます。

 ところで、絵のおとうとが秋川渓谷でスケッチしていて、その折にカメラを谷に落として、あぶなく滝壺に引かれるところであったそうです。 無事でよかったです。そのおとうとときょうは会えそうです。
Traumaがお祓いできるかですね。
つれづれこと終わり。

徒然こと 2 あたらしい音楽絵画です;

No 269and270Croquis October

朝日記151101 ”ウズベキスタンの大学で日本語を学ぶ学生・教員へ「千円札一枚寄金」を”

$
0
0

朝日記151101  ”ウズベキスタンの大学で日本語を学ぶ学生・教員へ「千円札一枚寄金」を!

おはようございます。 

年来の友人である技術士・田中信義さんが主宰するアルホラムズの会”古代シルクロードの中間点、ウズベキスタンの大学で日本語を学ぶ学生・教員へ「千円札一枚寄金」を”の呼びかけを先に、ご紹介をいたしましたが当朝日記の読者からの関心はかなり篤いものがありました。そこで、今回あらためて、田中さんから、本寄金の手続きを含めて以下のご案内が寄せられましたのでご紹介もうしあげます。 荒井康全 2015/11/1

 

~~~~~~

「アルホラズムの会」からのよびかけ

古代シルクロードの中間点、ウズベキスタンの大学で日本語を学ぶ学生・教員へ「千円札一枚寄金」を

 やる気一杯の学生達を教える日本語教科書、留学試験問題集が大変不足し現地では手に入りません。 国際協力基金などが制作した教材を現地へ送る活動です。

 千円札一枚が教員、学生達を救います。

 1,300年昔の奈良時代 唐僧 鑑真に随伴し、鑑真亡き後 唐招提寺の金堂伽藍を完成させた 安 如宝 はサマルカンドから渡来のソグド人。  偉大な祖先を持つ若い世代に支援の手を。

  

  中央アジアの国々(Google から)

 

 

「青の都」 サマルカンド ブルーの

ティリャカリ メドレセ(中世期の神学校)

 

 

「一冊の本、一本のペン、一人の教師 が世界を変えられる」

―  マララ・ユフスザイ  ―    2014年度 ノーベル平和賞

                                           (アラホルムズの会代表 田中信義 2015/11/1)

 

~~~~~~~~~

(解説 ) <以下の文の 項目2で寄金の手続きをご案内しています>

古代シルクロードの中間点、中央アジアの国で日本語を学ぶ学生達への支援

 

アルホラズムの会  代表 田中 信義

「学ぶ、知る」 その楽しさ  「教育こそ世界の未来」

   ―― マララ・ユフスザイ  ――

1.寄金活動の背景

古代シルクロードの中間点、遺跡と砂漠の中央アジア5か国を9年前に昔の仲間と旅をした縁で、親日国のウズベキスタンで日本語を学ぶ学生達の信じ難い苦労を知ることになりました。

  首都タシケントや 「青の都」 サマルカンドなど8大学で日本語を学ぶ学生は 2,000人、国際協力機構(JICA)から派遣の青年海外協力隊の教師や現地の教師が教えていますが、日本語教科書は書店になく、日本から送本のため首都の有力大学を除き肝心の教科書が大変不足、学生はコピーして使い、持ち去り紛失もあるようです。教師用の教材も同様。留学のための試験問題集も手に入らないそうです。


韓国が中央アジア各国に大学創設基金を提供し、中国は企業進出があり電気製品などが溢れているが Made in Japan は見かけません。

今、ウズベキスタンなどの若い世代は卒業後 就職の可能性がある中国や韓国へシフトを始めています。 それでも日本の文化や高度な社会に憧憬を抱く学生まだ多く、学生の応募は15倍の倍率。定員限度まで入学し、やる気一杯で勉強をしています。

ティムールが好んだかすり模様の普段着

(シャフリサブスの遺跡で)

 

 

 

ウズベキスタン略図 (Googleから)

 

ウズベキスタンの東、天山山脈支脈が延びる小国キルギス

はビザが不要で最も親日。高校第二外国語の多くは日本語。1,000人が日本語を学ぶ各大学は、有力大学を除き、やはり深刻な教科書不足。学生は教科書をコピーしているが、国の経済力からコピー代金の個人負担は大きい様子。日本語の参考書類も入手不能です。

キルギスの仏教遺跡を訪ねたとき3人の女子学生に会いました。3年間程度の学習で日本語を話し、漢字の読解ができることに驚きました。日本語の本が欲しい、初めて日本人と話したと喜んでいました。

これらの国は世界でも指折りの日本語教育国。イスラム圏ですが宗派間の抗争や、反日運動はないため日本でニュースになりません。現地の教師はこれらの実情を知って欲しいと言っています。

 

2.今のうちに何とかしなければ

そこで、誰でもできる国際貢献として、「千円札一枚寄金」活動を2014年に始めました。

寄金は、ゆうちょ銀行の口座アルホラズムの会へ郵便局のATMから振込ができます。

(お手数ですが 下記の 田中信義 メール silkrd.tnk@gmail.com へお問い合わせ下さい。)

 現金を扱うので「アルホラズムの会」は任意団体登録をし、運営規約を定め代表を田中、他に副代表、会計を定めています。そして年次収支報告書を作成します。

多くの知人にこの計画を伝えたところ、素晴らしい、喜んで協力、ブログに転載してよいか、何となくうさん臭い国と思っていたが親日国とは知らなかった、JICA などでできないことをサポートするのがNGO のあり方、日本人は蛸壷から出なければ、など予想外のコメントがメールで届きました。

  2015年10月末までに200人(再寄金者を含む)から千円札293枚(¥293,000)が寄せられました。

これを基に、国立サマルカンド外国語大学の青年海外協力隊日本人教員の希望で、国際交流基金が制作した教師用の各種ガイド ブック、標準教科書を送ったところ、どれもよい本、すぐ役に立つ、大助かり、感謝・感激のメールが来ました。

2015年6月には、首都タシケントの有力大学に勝るとも劣らない充実感ができたとメールが届きました。  遠い中央アジアの国で一人懸命に努力している同胞に頭が下がる想いです。 「カネしか出さない国」といわれた日本が「カネも出さない国」の今、ささやかな寄金がこれほど喜ばれるとは。

東南アジア各国で日本人ボランティアの児童教育活動は多いが中央アジア、しかも大学生支援は少ないのがこの活動の特長です。

現地は郵便事情が悪く教材でも開封や没収があるので、今は駐日ウズベキスタン共和国大使館に依頼し外交便で送っています。

オアシス都市のヒヴァを囲むキジル・クム砂漠

 

3.「アルホラズムの会」の所以

中央アジアのホレズム砂漠地帯は、紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシャの支配下にあり、古代シルクロード東西交易の要衝として栄えました。「ホレズム」は「太陽の国」の意味で、華麗なイスラム建築群で世界遺産登録のサマルカンドは年間300日の晴天が続きます。

ウズベキスタンの古代都市ヒヴァに8世紀に生まれたムハンマド・アル・ホレズミは数学者で、紀元前3世紀に古代ギリシアでユークリッドが創始した幾何学を8世紀に中央アジアで大成させた数学者です。最大公約数を求めるユークリッドの互除法は高校数学で教わった記憶があります。 世界遺産に登録されたヒヴァの城壁の前にアル・ホレズミの座像があります。

 

数学者  アル・ホレズミの座像  (ヒヴァ)

 

話がずれましたが、代数学 algebra、

コンピューター用語 「アルゴリズム」はアル・ホレズミに由来します。この 「ホレズム」と「アル・ホレズミ」に因んで造語ですが「アルホラズムの会」(Association  Alkhorazm)としました。


4.青年海外協力隊応募者と途上国無償支援の急激な減少

新聞によると先進国の途上国への支援は減少しています。ユネスコが途上各国の基礎教育を支援した金額は、2010年の62億ドルが翌2011年に58億ドルに減少、日本は3割を減額しています。

JICA青年海外協力隊への応募も著しい減少で、1994年の11,832人が2012年は 2,674人で、わずか 22.6%になりました。これは途上各国からの派遣要請を大きく下回り、2014年は充足率が実に38%のありさまです。JICAから派遣の教員が任期終了後の後任が欠員のままなど、外務省のレポートは途上国での日本の存在価値低下を懸念しています。

事実、サマルカンド外大の青年海外協力隊員は2015年末に任期終了後は要員不足のため、JICAは後任を派遣しないことになりました。やむなく手を尽くしてボランティアを探し、短期赴任の見込みができました。

JICAのウズベキスタンへの人材育成奨学計画は、2007年度の3.07億円 が漸減し、2013年度 は 33%の減少です。

一方、中央アジアは韓国が多額の経済支援を進めて直近の5年は首位を続け、ドイツが2位、日本は4位に低下しています。 国連事務局は日本のこれらの傾向を主要国では極端に少ないと指摘しています。

原因は、若者の内向き志向とシリアなどのイスラム過激派による争乱のためでしょう。国際社会で高い評価を受けて来た日本の海外貢献の歴史に黄信号が点滅していると指摘する声もあります。 やっと2016年度に途上国人材育成計画増額案が提唱され、日本の首相が中央アジア各国へ訪問してODA増額が決まりましたが。

当面はウズベキスタンの大学教員・学生を対象にしますが、知られざる最大の親日国キルギスへも展開の夢を。

 嬉しいことに千円札寄金で送った公式問題集も用いて勉強した女性教員が、6月に日本の文科省留学生試験の難関をパスしました。

内向き志向の利点でしょうか、エジプトや中東には日本語を学んで、争乱がない日本で仕事の望みを持つ若い世代がいるとか。

中央アジア5か国は、1991年に旧ソ連から独立した若い国ですが、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王がアケメネス朝ペルシャの跡を東漸してギリシアからヘレニズムを伝え、7世紀に玄奘三蔵が仏典を求め長安からウズベキスタンのタシケント、サマルカンドを経てインドへたどりました。

  1300年前の8世紀、聖武天皇の時代、奈良東大寺で授戒のため来日した唐僧 鑑真に随伴し、鑑真亡き後 唐招提寺金堂を完成させた高僧 安 如宝 はペルシャ系民族のソグド人。ウズベキスタンのブハラかサマルカンドから日本へ渡来といわれます。 7,000㎞ の行程には砂漠と、世界の屋根パミル高原、4,000mを越える「飛雪千里」の天山山脈があり、どのようにたどったのでしょうか。4世紀に中国の法顕がインドへたどったウズベキスタン フェルガナ盆地の「フェルガナ言語センター」や、首都タシケントの大学からも日本語教材支援の希望が届きました。そして、ありがたいことに、在家得度した昔の友人の努力で奈良薬師寺の山田法胤管長にお目にかかることができ、東京別院の例会で多くの参詣者から寄金を戴きました。 薬師寺は南都六宗の一つで、門信徒、墓地を持たず葬儀をしない寺院です。 薬師寺の本尊 薬師如来の台座にはシルクロードを伝わった古代ギリシアの優雅な葡萄唐草文様や、ペルシャから伝来の蓮華文様が刻まれています。

 「千円札」ではまとまった経済支援は困難ですが、偉大な祖先を持つサマルカンドの若い世代に 草の根型の知的人道支援を。

 

「一冊の本、一本のペン、一人の教師が

世界を変えられる」

    ―― マララ・ユフスザイ ――

17歳の少女が世界を感動させた

                    田中信義 (公社)日本技術士会名誉会員

                       情報工学/応用理学部門)

 

                    この活動は、東海大学元副学長内田裕久教授

                 (神奈川サイエンスパーク代表取締役)を顧問に行っています。

以上

  (上記掲載内容は原著者のものを極力尊重するも、レイアウト上の差異については本ブログ編集者の責任のもとにあることを申し添えます)

                  

       

151103朝日記 首脳会談、絵画「しずかな港」とハイデガー、今日の絵

$
0
0

151103朝日記 首脳会談、絵画「しずかな港」とハイデガー、今日の絵

こんばんは。前日投稿にて 失礼します。
きょうは一日 雨でしたね。はや時雨れか 秋霖か。


徒然こと 1 日韓首脳会談
日韓首脳会談については、安倍総理ご苦労様です。
総じてどうななのか、9月3日以来やはり、気になっていました。さまざまな思いが走ります。
まず、老齢で狭量になった私としては、韓中に嵌められた、無理やり引っ張り出され、ありがとうと言わされたという感情がのこります。
総理は、胸襟をひらいて、おおらかに語り、あとは知らんふりで帰ってくる、したがってご苦労様ということになります。
隣どうしの付き合いはむずかしいですが、愛想よく、ドライにということを貫きたいですね。
ともかく、日本国としての戦略を堂々と張って、積極的平和外交でいこうという願いです。

NHKが妙に会談開催をあおっていたことが気になっています。
流してもよいのにね。これが本音です。
2014・11の作品1


徒然こと 2 絵画「しずかな港」
安部さんからはげまされて、介護予防月間応募落選のポスター題名「しずかな港」を町田文化祭絵画展に出展しました。 絵画コラージュでデジタルA1版でしたので、クラシックな絵画のなかでは、やはり衝撃を与えたようですが、
お祭りという雰囲気のなかで好意的でほっとしています。

(町田市文化祭絵画展出展 コンピュータグラフィックス size;A1 60cm x 90cm)


~~~~~
「しずかな港」、展覧会に出したものは、いろいろ
試行錯誤したあげく、結果的には業者にA1サイズにしました。
描画以外は全部デジタルで、地のブルーは成功でした。
クラシックな展示のなかでの出展でもあり、話題を提供して
口コミで見にいかれたひともあったようです。



「しずかな港」からの連想すること
1 ハイデガーのことば
唐突ですが、ハイデガーのことばの引用を掲載します。
彼の晩年の境地であるかもしれません。
~~~

「しずかな、充実した港」にあること、すぺての存在するものと物のうちで、このいまのときのもとで輝きある存在
、そして、もっとも 優しく受け入れてくれる「法」のもとに、われらに、あらわれる「発現」としての存在、その関係において、そこにあること。」

Serene being-at-home, in relation Being as temporal shining-forth of all beings and things and who speaks about Being as Ereignis as "the most gentle of laws"

 これは、David F.Frellというアメリカの哲学者の最近の著である
”「Ecstacy, Catastorphe:Heidegger from Being and time to the Blacknote”という哲学新刊本があって、Richard Capabiancoという人が書評したものの翻訳です。ノートルダム大学の哲学書レビューからです。

2 ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」
 目下、ハイデガーの「存在と時間」に集中していますが、大変おもしろいです。
カントの認識批判哲学は、厳然として彼のベースになっていますが、デカルトの「我考える、故に我あり」の「あり」というのはいったいなにが「ある」のかという問いです。
たとえば、「病気のあらわれ」というのは、病気そのものは私ではない、しかしその私でない病気というものが私の場を借りて、病気を告げる。
これを「現象」と定義します。それでは、その’あらわれ’というのは、本当に存在するのか、これを如何に証示するのかがでてきます。
おもしろいのは、彼は「存在了解」という概念を導入します。
そういう「病気」が「あらわ」れるひろい世界、つまり「世界内存在」があるという仮定です。ざっくり、そういうものがあるという共通認識をひとは持っていて共有しているとする。 (個人の認識論から集団の認識論への超克で、これを「現存在」と定義してもよいと理解します)
その点では、「世界内存在」は「神」とおなじ超越論になり、カントの形而上学的な直観という超越論と
とともに観念論として位置づけられます。むしろ相互に相補的な関係になるとおもいます。意味があるとか、分かるとかは認識論的事実であるからです。(むしろアフィニティがあり、そこからの思考の発展が期待されます)
ともに、証明のしようのないものは、それをひとまず前提にして思考をすすめ得ざるを得ないのです。)
「存在」そのものも、とことんなんだ?と問い詰めると まさに超越論的なものとなります。
 
3カントの認識論とハイデガーの存在論

 カントの認識論は 大体以下です;主観(主体)による
経験→現象→概念⇔理念⇔普遍性 (存在への認識)

一方、ハイデガーは むしろ「存在」=「現象」ととらえます。
主体は、現にそこにあって、経験としてある現実的自体に身をおいている、そこで主体が「現象」を経験していく。その場は空間ですが、そのなかにいるという知覚(認知)することになります。この関係で存在と付き合うということになります。この主体を「現存在」(Da Sein)とよび、そこでの存在了解を「実存」(Exsistenz)とよんでいます。ここで重要なファクターは「時間」になります。この時間によって、現象があらわれてくるとします。主体はいつも現象に関与していることが前提です。したがって「現存在」(Da Sein)です。

2014・11の作品2

4 世界内存在 
 余談ですが、時系列解析で エルゴート性というのを思いだしませんか。
ある区間の道路での自動車の振動計測の結果のスペクトルは
同じ区間の道路の測定での繰り返いしの測定アンサンブル結果と同じというあの確率仮説と同じです。

 主体つまり「現存在」は、かれが関与している時間の経過のなかでの「現象」つまり「実存」自体が世界を表現しているという意味で世界を語るとします。それを「世界内存在」と称し、ひとは、これを通じて普遍性を窺がう。
この辺りで カントの認識哲学との理論的接合性が見えてくるようです。私は、ここにつよい興味をもちますが、これはまた別に論じたいと思っています。しかし、ハイデガーは、この普遍性へとは急ぎません。この現象界での人間のつよい眼差し、つまり「現存在」と「実存」で存在の意味を捉えることに専念しようとします。この思想の流れは、フッサール、その弟子であったハイデガー、フランスのメルロ・ポンティ、サルトルへとを展開して、現在「現象論哲学」として地位を得ています。
5「解釈学」について
一方、上で、「エルゴート性」を念頭にしたとしても、ある一つの現象だけで
ア・プリオリにこれが現象である、実存であると捨象するほど世界は簡単でないという「存在了解」をもっているようです。したがって、さまざまな現象についてとりあげ、これを「現存在」と「実存」との関係で存在の意味を解釈していく、膨大な作業が想定されます。これを「解釈学」とよんでいます。 人文科学の主要な活動はここにおかれることになります。私は、この「解釈学」は、大切な学術活動と理解していますが、システム情報科学など工学系生業としてきた人間にとっては、なにか、落ち着かないようです。それは、行動につなげる思考の「地平」が見えにくいからです。

5 比較制度論について
まったく別の観点で、先日亡くなられたスタンフォード大学の経済学者である青木昌彦さんの 比較制度論を学ぶ機会を得ました。彼の業績は、たとえばグローバル経済市場のもとでは 日本もアメリカも経済の構造の
行き着くところが、単一均質化(homogeneous)構造になるという仮説を覆したことを知ります。安定構造はいくつもあり、単一構造はいつくかある構造のうちのひとつでしかないということ、これをポリマーや合金のの多相構造への安定性という力学モデル過程から証左しています。

わかってしまえば、ああそうかということですが、これは現象論モデルをつかってのゲーム理論の勝利です。 こういう発想の哲学がきっとあると動物的勘をはたらかすと、彼はスタンフォードの哲学の先生に John Searleというひとがいて、Social Institution Theoryという現象論と認識論との
接合を展開理論につよく影響を受け、彼の哲学を賞揚していたことを知りました。アメリカはプラグマティズムの国ですから、理論と行動とを品質管理のPDCAのような思想体系を
目指します。そういう意味でのEvolutional Epistemologyのパラダイムも登場してきてにぎにぎしいです。

6 Institution理論と、Heideggerの現象論
そのような、Institutionまでにいくと、Heideggerの現象論が,時代に先導し、もしかしたら、そおっと英米系制度論へと時代的な開花をしているようにおもいました。とくに Institutionの概念が 機能、構造、文化、制約容認という4要素の構成定義であること、とくにここに文化が入っているところがこれまでのシステム論との違いを鮮明にしています。その機能構造として agency とinstitutionの二元構造が特徴的です。
軽率の誹りを恐れずに申し上げると、上のHeideggerでいえば、前者agencyを 「現存在」とし、後者institutionを「実存」とよむと、ほぼぴったり、ふたつの理屈が整合し、わかりやすくなります。
(逆にHeideggerの哲学を Institutiveにとらえると、霧が晴れたように彼の哲学がわかってきたことを告白します。)

 これからの日本人を、日本国を考えるうえで、とうしても、哲学に裏付けされた広い意味の制度論敵設計が、国民の「そう活性化」において見直され、present of institutionなければならず、absent of institutionを丁寧に消去していくことを痛感しています。
6.Ereinis
さて、描き下ろしで多々のべましたが、この辺で ひとまず筆を止めますが、冒頭のEreinisの話しにまではいたりませんでした。
Heidggerの後記の哲学は、この「現存在」と「実存」の哲学からら、人生としてなにが見えてくるかという問いかけの応えとしてこのEr-Augen 目をじっと開いて招きよせる、異なる次元での「現存在」と「実存」という意味のEreinisの境地に至ったようです。 異界からのEr AugenつまりEreinsですね。(邦訳では「性起」?ですが、あまり的確な役ではないですね)
おわりに、 先にお送りした「しずかな港」について私のこじつけをさらに加えると 若い婦人が「こまってしまうわ!!」手を拡げている、そばの老人は語らないが、無言で深いなにかを見つめ、なにかを語っているのではないかと、勝手な事後解釈となりました。
どうも お付き合いいただき恐縮です。
荒井


朝日記151107 あたらしい音楽絵画No 270November morningときょうの絵

$
0
0

 朝日記151107  あたらしい音楽絵画ときょうの絵

 

みなさんおはようございます。
今朝は、寝坊してラジオ体操は、自分の部屋ですませました。


徒然こと1 ラジオ体操はじめて15年を越えて

いまのラジオ体操をはじめて15年を越えますが、最初からご一緒した婦人が、最近腰の筋肉痛になり、休まれています。 リズム体操や毎日の水泳をなされ聡明で活発な方です。いまは一人住まいで、近くに御親戚がいますが、とりあえず、さすがにお困りでした。
 結果は、地区の民生委員に相談され、今後の手続きなどの話を聞かれ、地区の介護予防センターとの接触が始まったこと、電話で話されました。 詳細はわかりませんが、介護認定をうけるには けっこう日数がかかるようです。
結果的にすこしよかったのは、介護予防センターについての予備知識をもっておられ、お互いに顔見知りであったこと、それで状況が通じやすかったことでした。  

徒然こと 2 あたらしいのをつくりました。
 音楽絵画No.270 November morning をつくりました。以下でご覧ください。
 このごろ、手帳での日程を間違えることが多くなったようです。 きのうは、太極拳の会の週日を間違えました。スケッチ帳をもってでたので それはそれでよしと決め込んで、近くのアウトレットと公園で写生をしました。とくに、マックのテラスは、最近のお気に入りで、ここでストロベリー・シェイク、フレンチフライに100円バーガーをテーブルにおき、これからスケッチを始めます。おもしろいです。あとはその先の、空間で、特に行き交うひとの残像を描いたりします。 Moeka-chanのおじいさんが、絵を描いていたなどの情報が別ルートで家に届いたりします。
この音楽絵画はそのときの状況です。
音楽はとりあえずは、ここでの定番のトスティのトルメントです。ヴァリエーションとして、ブラームスのホルントリオ第1番第2楽章アレグレットです。 

音楽絵画No.270 November morning

 

 

音楽絵画 No.270(ヴァリエーション)November Morning

https://www.youtube.com/watch?v=JKhY0W5QzME

音楽は、ブラームスのホルン三重奏曲 第1番第2楽章 アレグレット 演奏Jeno Kevehan。

徒然ことおわり

朝日記151109 試作音楽会のWelcome‐boardと今日の絵

$
0
0

朝日記151109 試作Welcome boardと今日の絵

おはようございます。 ポスター「しずかな港」からのはじまって、こんどはWelcome-boardのデザインに挑戦しました。カリグラファーCoCoからフレームをつかわせてもらいました。 絵は山水画掛け軸フレームで油パステルとして秋の風景 フィオレット景、ブロイ景そしてグリュネ景の 三点です。

演習題はわが街つくし野地区の女声合唱団レルヘン・コールのコンサートとしました。 タイミングがよかったので採用されて、青葉台フィリアホールの演奏会場に飾っていただきました。 絵のおとうとと一緒の記念写真も置きますが ひかりの反射がすこしつよかったです。

以下いざ、ご覧あれ。 

 

violet景

 

bleu景

 

gruene景

 

橘樹住香画伯とわたくし(青葉台フィリア・ホール)

 

今日の絵です;

素描おれんじXIV11

以上

朝日記151110 雑誌に掲載された偶感二題と今日の音楽絵画「絵馬」

$
0
0

 

朝日記151110 雑誌に掲載された偶感二題と今日の音楽絵画「絵馬」おはようございます。きょうは一日雨でした。

きょうは、以下二つです;

1.絵画は観世能「絵馬」と音楽絵画No.138と

2.NPO法人人間環境活性化研究会 「HEART会報」 83号 2015秋季号への寄稿随想のコピーを掲載します。

音楽家絵画 No.138 「"Ema" 絵馬 」(2013年12月制作)です;

 https://www.youtube.com/watch?v=MTSltZ46F4c&index=5&list=PLJ-2JTwLfCf2JB3UlEegtRGiiWgdYMQfO

(観世能「絵馬」素描2012年12月)

 

 

 

 

 

 

 「HEARTの会会報」 No.83 秋季号 2015 目次 7ページが筆者のこの随想です。

 

朝日記151111 徒然こと クロッキーのことと、今日の絵と音楽絵画

$
0
0

朝日記151111 徒然こと クロッキーのことと、今日の絵

おはようございます。

今日の絵 Hommage to Strong woman and her son

by Yasuo Kuniyohsi, 1908

~~~~

音楽絵画 

Tシャツイメージ

https://www.youtube.com/watch?v=pQ7_R2Y0GyA

~~
徒然こと クロッキーのこと
きのうはクロッキー例会でした。雨でしたので傘をくわえ、
画材のリュック、クロッキー帳の中大の筒、ショールダーの4点セットのスタイルとなります。これに赤・青・黄色ストライプのハットを被ります。 これが最近の絵のときの定着となってきて絵の仲間もそう見ててくれます。

ほかの絵もそうですが人のモデルをどう描くか、どこから描くかは 会場への道行にて、思いをえがくのもおもしろいものです。 木炭、コンテ、パステル、グラファイト、水墨、水彩などで それぞれの線からの異なる像が出てきます。
濃淡をつけるのはガーゼやティッシュなどもそうですが、最近はもっぱら、中指です。あと爪をあらうのが大変で、ひとがみれば不潔な爪と宣下されてしまいます。しかし、これが一番よい筆刷毛です。
描き始めをどこからするかというのもなかなかの問題です。対象にとどまった目の焦点を大切にして、そのあたりから部分的に描きはじめます。全体をとらえることも同時ですからそこにこれまでの体での習得度がものをいうことになります。
しかし、書き始めて、しまった!とおもう場合のほうが、必死になるので、あとで仕上がりがよい場合が多いようです。
描くのを、実験ということにしますから、失敗と思った作も大事にします。
 何枚かは、頭部、顔を画面いっぱいに描きます。これが一番好きです。 Anatomical drawings for ArtistsというDover版をAmazonで以前に買ったので、人体骨格などをときどき、自分の家で描いたりします。人体はいずれも、すばらしい構造ですが、この数年は、骨盤がおもしろと思っています。犬などの四足の動物のそれと、比較して形態進化のさまを見たりし、ときに、感動します。
 クロッキー会の主宰の菊池理氏は、早描きで有名な画家でここで油絵の制作の本番をなされています。私は、自然に彼の隣を占めてしまい、なにか呼吸のようなものを通じてつよい影響をもらっています。
 このあと、家に帰ってからの楽しみは、新聞紙大の原画を撮影して、デジタルとしてPCのピクチャーファイルに納める作業です。およそ50点くらいになります。
 風景や静物などの作品をもつかい、YouTubeでクロッキー版音楽絵画の制作のたのしみとして残します。
 音楽は、声がでていたときのシューベルトの録音をひとまずつかい、あとvariation版をつくります。これは、YouTubeの無料提供のレコードを使います。ドビッシーやシューベルト、ときにビゼーなど、またアメリカのカントリーなども気に入っています。音楽絵画は270巻になりました。
 朝日記に徒然ことと今日の絵を、facebookに朝日記をリンクしますが、アーカイヴとして昨年のこの月版として、絵や音楽絵画を再編集して掲載もします。 これらのアクセス数は30万回を越えています。1週間に大体1000~2000くらいのアクセスでしょうか。
 友人から毎回 励ましのマーキングやコメントもいただいて感謝しております。
 これが、およそのクロッキー生活の現況です。
 来週は、箱根の紅葉を描きに、宮城野の弟のアトリエに行こうかと考えています。
徒然こと終わり
 

朝日記151112 徒然こと 首脳会談、自画自賛やハイデガーのことなど

$
0
0

朝日記151112 徒然こと 首脳会談、自画自賛やハイデガーのことなど

おはようございます。

以下は、雑誌投稿下書きのものですが、日記として掲載します: 

 

~~~~~~~~

-偶感- 

徒然こと 首脳会談、自画自賛やハイデガーのことなど

                                                                                                 

会員 荒井 康全

 

初冬の時雨の日、部屋にとじこもり「徒然こと」を書きました。

しばしお邪魔を申し上げます。


徒然こと 1 首相官邸のネットに送ったこと(2015/11/2)

 以下のような書き込みをおくりました。 

~~~

日韓首脳会談については、安倍総理ご苦労様です。総じてどうなのか、9月3日以来やはり、気になっていました。さまざまな思いが走ります。まず、老齢で狭量になった私としては、韓中に嵌められた、無理やり引っ張り出され、ありがとうと言わされたという感情がのこります。 総理は、胸襟をひらいて、おおらかに語り、あとは知らんふりで帰ってくる、したがってご苦労様ということになります。隣どうしの付き合いはむずかしいですが、愛想よく、ドライにということを貫きたいですね。ともかく、日本国としての戦略を堂々と張って、積極的平和外交でいこうという願いです。
NHKが妙に会談開催をあおっていたことが気になっています。流してもよいのにね。これが本音です。

徒然こと2 自画自賛「しずかな港」
 毎年、10月は、介護予防月間です。 ポスターのコンペがあり、これにいくつか応募しました。全部、落選はしましたが、せっかくだからということでしょうか、市役所のロビーで飾ってくれました。  応募した私の3つの作品のうちで、このページに掲載しました「しずかな港」というのを、別の絵画展に、出展しました。

 この絵「しずかな港」は、地の色をプロシャ・ブルーに置き、標語は「いつまでもわたくしらしく生きる」と「元気なうちから自分の健康づくり」で、これを朱色の文字での帯としました。試行錯誤したあげく、元のA3サイズを拡大してA1サイズとして押し出すことにしました。

~~~絵(しずかな港)~~~

会場全体が油彩や水彩など、オーソドックな空気のなかでは異色となり、すこし、話題を提供したようでもありました。


徒然こと3 「しずかな港」からの連想すること
1 ハイデガーのことば
唐突ですが、ドイツの哲学者ハイデガーの以下のことばに偶然出会います。これは彼の晩年の境地であるかもしれません。
~~~

「しずかな港」にあること、すべての存在するものと、ものの中で、このいまのときのもとで輝きある存在、そして、もっとも 優しく受け入れてくれる「法」のもとに、われらに、あらわれる「発現Ereignis」としての存在、その関係において、そこにあること。」

~~~~
 これは、ノートルダム大学の公開ネットであるNotre Dame Philosophical Reviewからの引用です。正確にいえば、フレッル(David F. Frell)というアメリカの哲学者の最近の著で、”Ecstacy,      Catastorphe: Heidegger from Being and time to the Blacknote”という哲学の新刊の著作(R. カーパビアンコ(Richard Capabianco)の書評からです。 ‘恍惚、破綻:ハイデガー、存在と時間~本人のノート’といった意味の題名です。

2 ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」
 御承知のように、ハイデガーは、20世紀最大の哲学者と現在では評価が落ち着いてきています。筆者は、目下つきあっているカントの哲学とのつながりを知る意識のもとで、彼の代表的な著作である「存在と時間」を読み始めたところでもあります。
 ハイデガーは、デカルトの「我考える、故に我あり」の「あり」というのはいったい何が「ある」のかという問いからはじまります。 たとえば、「病気のあらわれ」というのは、病気そのものは私(存在者)ではない、しかしその私でない病気というもの(存在)が私の場を借りて、病気を告げる。彼は、これを「現象」と定義します。それでは、その’あらわれ’というのは、本当に存在するのか、これを如何に証左するのかを問うてきます。おもしろいのは、この場合、彼は「存在了解」という概念を導入します。そして、そういう「病気」が「あらわれる」ひろい世界、つまり「世界内存在」があるという「存在了解」の前提に立とうと提案します。ざっくり、そういうものがあるという共通認識をひとは持っていて共有しているとするのです。 (個人の認識から出立して、集団の認識へと延長して、これを「現存在」と定義します)。 それを経てもなお、「世界内存在」は、「超越者」もしくは「神」とおなじ超越論的存在の仮定に留まります。 カントの認識哲学は人間の「直観」という超越論認識を認めますが、ハイデガーもその意味では、基本的には観念論として位置づけられるものです。「世界内存在」は、「現存在」のおかれる環境としての位置関係になるとおもいます。ハイデガーの説明のなかで、彼自身がさらりと「意味がある」とか、「分かる」とかの表現を使っていますが、その表現の自体が「世界内存在」を認識論的に前提していることを認めていることになるからです。そういう点ではカントの哲学とハイデガーの哲学の双対的に相互に必要な関係といえます。したがって、それを見たうえでの、新たな思考の発展が期待されるところでもあります。「世界内存在」などのように、人間のちからで証明のしようのないものは、それは、それとして、ひとまず前提(仮定)にして進め得ざるを得ません。とことん、これは何なのだ?と問い詰めていくと 結局、超越論的なものであるという答えに返らざるを得ない「存在」です。

3 カントの認識論とハイデガーの存在論
 ところで、カントの認識論は 大体以下です;主観(主体)による経験→現象→概念⇔理念⇔普遍性 (存在への認識)

 一方、ハイデガーは 「存在」=「現象」ととらえます。
 主体は、現にそこにあって、経験としてある現実的事態に身をおいている、そこでは主体が「現象」を経験していく。その場は実態空間の中ですが、そのなかにいるという知覚(認知)をすることになります。この関係において、「存在」と付き合うということになります。この主体を「現存在」(Da Sein)とよび、そこでの存在了解を「実存」(Exsistenz)とよんでいます。この段に至って、重要なファクターとして「時間」が登場することになります。この「時間」によって、「現象」が進行して我々(つまり「現存在」)の前にあらわ、来ることになります。 主体(主観)はいつも「現象」に関与していることが前提です。「実存」とは、「現存在」との関係であらわれる「現象」上の存在となります。


4 「世界内存在」 
 余談ですが、工学系の人にはなじみのある概念として、確率的不規則振動論などの信号の時系列解析で エルゴート性というのがありますが、思いだされるでしょうか。自動車に測定器を積み、道路の或る区間での自動車の振動計測を一度通して測定すると、その結果の時系列波の周波数信号のスペクトルは、同じ道路区間でランダムに選んだ固定観測地点での集積した周波数測定値のアンサンブルのスペクトルと、同一のものとなるというあの確率仮説です。

 つまり、主体の経験する「現存在」は、彼が関与している時間の経過のなかでの「現象」、つまり「実存」自体が「世界」を、結果的に表現しているという意味で、「世界」を語るとします。それが「世界内存在」です。 ひとは、これを通じて、(徐々に)普遍性を窺がうというものですが、次の道路の区間に延長して同じになるかは保証のかぎりではありません。したがって、「現象」としての「実存」は簡単には「普遍化」はできません。一方で、この「普遍化」の部分空間として「世界内空間」を捉えるなら、その範囲での「普遍概念」形成というカントの認識哲学との接点も見えてくると考えます。筆者は、ここの点につよい興味をもちますが、これはまた別に論じたいと思っています。しかし、ハイデガーは、この普遍性への接近には、あまり急がなかったようです。「現象」界への人間へのつよい眼差し、つまり「現存在」と「実存」とで、「存在」の意味を捉えることに意識の重点を置き、ここに思考を専念したようです。この思想の流れは、フッサール、ハイデガーや、フランスのメルロ・ポンティ、サルトルへと展開して、現在「現象論哲学」として地位を獲得しています。

 

5「解釈学」について
 上の説明で、「エルゴート性」を念頭にしたとしても、ある一つの「現象」だけでア・プリオリに「世界内空間」として、捨象するほど世界は簡単でないという「存在了解」を、彼はもつので、さまざまな「現象」について、ひと(「現存在」)が対象として注目し、これを「実存」との関係で「存在」の意味を解釈していくことに帰着する発想は当然でてきます。これはある意味で、膨大な作業が想定されることになります。 これを位置づける学問を「解釈学」とよんでいます。 人文社会科学の主要な活動はここにおかれることになります。 筆者は、この「解釈学」は、大切な学術活動と理解していますが、かつて実務世界で、システム工学系の生業としてきた人間にとっては、なにか、このままでは落ち着かない気持ちになります。それは、「行動」につなげる意識の「地平」が見えにくいからです。

6 比較制度論について
 ここで、また、まったく別の観点ですが、先日亡くなったスタンフォード大学の経済学者である青木昌彦さんの 「比較制度論」に学ぶ機会を得ました。グローバル経済市場のもとでは たとえば日本とアメリカは文化や歴史背景が異なってはいても、経済の行き着くところが、単一均質化(homogeneous)の機能構造に還元して落ち着くという従来仮説がありますが、彼はこれを覆し、多元的文化背景を認めたうえで、合理的な経済市場の機能構造の存在意味があることを明らかにしました。 つまり経済の合理的な安定構造はいくつもあり、ひとつではない。 これは高分子や合金の多相ミクロ構造の存在で全体が高機能性で、安定性であるという力学モデル過程が、発想のヒントになっていたようです。巷間でいう‘超合金’ということになります。 わかってしまえば、ああそうかということですが、「現象論的数学モデル」をつかっての「ゲーム理論」研究の勝利といわれます。 こういう発想の哲学がきっとあるのだとして、おそらく、研究の早い時期から動物的「勘」をはたらかせ、その結果、スタンフォードの同僚である哲学者J.サール(John Searle)教授との出会いがその後の理論展開におおきな意味をもったようです。 これは「社会制度論(Social Institution Theory)」という「現象論(存在論)」と「認識論」との接合理論展開であったと、青木はサールの哲学を賞揚していたことを最近、知りました。アメリカはプラグマティズムの国ですから、理論と行動とを品質管理の‘計画~実施~確認~修正’のPDCAのような行動サイクルの思想体系を大切にします。そういう意味では、目下「進化論的認識論(Evolutional Epistemology)」のパラダイムも登場してきてにぎにぎしいです。

7 「Institution理論」と、ハイデガーの「現象論」
 さて、「制度化 Institution」の概念は、平均的な日本人では、政府など公的機関での「制度化」の意味程度の理解でおさまっているように思います。しかし、あらためて調べますと、現代では、政府、家族、言語、大学、企業、そして法体系へと広がりを持って捉えています。

そのような意味範囲での「社会制度論Social Institution Theory」にまでくると、ハイデガーの「現象論」が すでに時代に先行して、暗黙裡に、英米系のこの制度論へと整合的な意味展開をしているように見えてきますが、どうでしょうか。大切なのは 「制度化Institution」の概念が 「機能」、「構造」、「文化」、「制約容認」という四要素の定義構成であります。特に、ここに「文化」が入っているところがこれまでのシステム論との違いを鮮明にしてくれます。 そして「制度化Institution」は、その行動機能構造として 「機関agency」 と「(制度化(対象体))institution」の二元構造を登場させます。 
 筆者は、あえて軽率の誹りを恐れずに申し上げると、ハイデガーでいえば、前者「agency」を 「現存在」とし、後者「institution」を「実存」と読み替えると、ほぼぴったり、ふたつの理屈が整合し、意味が伝わってきてくることを告白します。(逆に彼の哲学書をよむにあたって、 「制度化Institution」として読み替える、霧が晴れたように彼の哲学がわかってきて、新鮮な意味を見出します)

 話はおおきくなりますが、これからの日本人を、また、日本国を考えるうえで、とうしても、上の枠組みでの制度論的な「解釈(分析)」と「設計」が、国民的規模で見直されることが不可欠の課題となるのではないかという思いを致します。とくに大切なのは、「制度化 Institution」は、政府公的機関にだけに頼って、そこに責任を押し付けている狭い発想の社会了解では、成り立たちえなくなっているということ、そこにおいての認識基盤の変革が必要となるべきことを知るに至ります。NPO法人「HEARTの会」も、ひとつの「制度化 Institution」という使命を負うことになります。

 

8.「発現Ereignis」について
さて、書きつらね、多々のべましたが、この辺で ひとまず筆を止めます。冒頭のEreignisの話しにまだ至りませんでしたが、ハイデガーの後期の哲学は、この「現存在」と「実存」の哲学から、人生の終焉としてなにが見えてくるかという問いかけがあったと思います。その答えとしてこのことばがでてきます。Er-Augen; 目をじっと開いて招きよせると、異なる次元での「現存在」と「実存」という「実存」の「発現」があるという意味の語源の派生として、Ereignisの境地を語ります。 異界や霊界からのEr-AugenつまりEreignisかもしれません。(邦訳では、あまり的確な訳ではないと思っています)
さて、冒頭の介護予防月間ポスター落選作の「しずかな港」について筆者のこじつけをさらに加えさせていただきます。 若い婦人が「困ってしまうわ!!」と手を拡げている、居合わせている老人は、応じる気配もない。ただ、無言でなにかを見つめ、なにかを心内で語っているのではないかと、絵解きとして申し上げます。お付き合いいただき恐縮でした。
      (上席化学工学技士 2015)

 

朝日記151113 新しい音楽絵画 今日の絵そして「架空請求」ことなどと

$
0
0

 

 朝日記151113 新しい音楽絵画 今日の絵そして「架空請求」ことなどと

 *今日の絵 (杉山寧へのオマージュ 2013.11.24)

  *新しい音楽絵画No.271

  「秋のコンポジット」(original)

 音楽はElskay lilt (Jaap Rimlock covering)

https://www.youtube.com/watch?v=P4OPYs1oeuY&index=2&list=PLJ-2JTwLfCf3pj96C-PsRh_99BO6MdR-q

 

「秋のコンポジット」(ヴァリエーション)

音楽はMorzart のピアノとオーケストラ

No 271variation-Hisae Suzuki and Lerchen Chor

 

徒然こと 「架空請求」に気をつけてください

以下のようなメールが携帯にはいりました;

「15・11・2 02:14

 F   sms

受信 sms

 有料サイト利用履歴があり料金未納状態です。本日ご連絡ない場合、

法的手段も以降します。至急 料金窓口までご連絡ください。

03 6633 7176 」

以上です。 こういうのをもらうと やはり、気持ちが動きます。

こういう場合は、まず、察か自治体の消費者センターに相談にのってまらうのがよろしいです。

 朝が早いのでどうしても直接行動で相手側に、事実の確認にはやります。

返信メールのアドレスもない。ただ、返信電話番号のみです。 実際 電話を掛けました。

相手がこちらのフルネームを尋ねてきました。 こちらは、相手がどういう事業者であるかを尋ねますが、どうも訝しく、これから警察に連絡してから、また電話するとして、切りました。すこし慌てている気配でした。

 実際は市の消費者センターに相談にのってもらいました。最近の詐欺の手口の代表的なもので「架空請求」というそうです。 ともかく 接触をとらないことが一番である。裁判所から連絡がきたらこれは無視せず、異議申しだてをする。このときまた消費者センターが相談にのるというものです。 私の今回は 登録者名と携帯番号が相手に伝わっていますが、ともかく無視続けることをアドヴァイスを承けました。

このような輩に警告を与えることはできないのかという問いには、東京都と警察が当たりますが、事実の累積でうごくようです。 センターは当該電話を記録として受けました。

以上の具合でした。 濱のまさごは絶えるとも、げに・・・ですね。

徒然ことおわり

 

 

 

朝日記151114 「Da-Sein」のこと と今日の絵

$
0
0

朝日記151114  「Da-Sein」のこと と今日の絵

おはようございます。今日は一日雨の土曜日のようです。

つれづれこと 1
今朝は雨ですね。
朝、九州で地震でした。
ラジオ体操の時刻は地震の報道で体操はなしでした。
テープにきりかえました。首の体操の部分がスキップされた録音でした。

 

                今日の絵 1 (DaSein 映画のような構成の絵)

樹の肌で、ああここに枝があったのであろうとか、肌の起伏などから描き始めて、急に「Da Sien」(「現存在」と訳されています)かな?と、ハイデガー先生の哲学用語が脳裡を掠めます。 そういう状況のときにでることばかなあ?としておきます。ことしは、柿の当たり年で、赤い実が鈴なりです。ゴミだしにきた婦人が、自由に取ってもいいといわれていますが、他人のものに手を出すのは憚れるとのこと、また、このごろは、種無しの柿が売っているので、こどももあまり興味を引かないといいます。
 もっとも、そのこどもの数もすくないところですから、そうか、オナガドリや、ヒヨ鳥への食糧かとおもいながら、スケッチをつづけました。
通勤の時間に、いつもおはようございますと声をかけてくれる娘さんは、休日で、ゴミだしで、ぱったり、あらオジサマ絵をお描きになるんだと、覗いてくれました。

 今日の絵 2 柿の木

 きのうは、健康太極拳「ゆりなみ」の稽古日でした。月2回です。 正式には「ゆりみなみ」です。 なぜ「ゆりなみ」かの絵解きですが、先生が中村百合子というお名前で、また、この会を企画したのが町田市の「高齢者支援南センター」でありました。 ということで、「百合」と「南」の合成です。 この会を立ち上げた幹事さんが、大学の国文学の先生であったひとで、ことばのひびきに一生懸命でした。また、件の百合子先生が天女の舞をおもわせる美しい演技でご指導されていることにも依り、そう決まりました。 私はといえば、一年間は通いますと、’枯れ木のにぎわい’程度としていましたが、’生むは案ずるより易し’で、みるみる参加者が増えてきました。 10月は、介護予防月間でしたが、 そのロマンチストの幹事さんから、「ゆりなみ」のポスターが、筆者に依頼されます。 作品が、センターのフェスト会場に飾られました。 天女舞いのイメージ効果はあった!!と秘かにおもっています。

 スケッチブックを用意して出たので、太極拳の会場から歩いて10分くらいにある東急田園都市線・南町田駅まであるきました。 アウトレットの「グランベリーモール」と森林のある「鶴間公園」があります。 昼に、マックのテラスでストロベリーシェイク・フレンチポテト・100円バーガーにするか、 イレブンのおむすび+バナナ連合にするか迷いました。 さきにあったのがイレブンで ここで、フィリピン・バナナが 4本パックで85円というのに目が留まり、けっきょく おむすび連合にしました。  そして 迷うことなく森林のある公園をえらびました。このあたりの平日の昼時間は、作業のひとと、丘の四阿に、年輩の婦人組が少々という程度で、しずかでした。 いくつか、柳材の木炭で 葉を落とした桜樹を描きます。 木肌を描いているときに 「Da Sein」という語が脳裡を掠めます。あのハイデガーさんがここにもでてきます。 自転車や 婦人たちも対象・材料となり何枚かを描きます。 二時間ほど経っていました。これを家に帰ってから どう使うか 思い描きながら帰途につきました。 おわり。



 今日の絵 3 柿実る


朝日記151116 Deep Condolence with people of France

$
0
0

朝日記151116  Deep Condolence with people of France

I express my deepest sympathy to all people who suffered from the brutal and cruel terrorism attack in Paris.  I also heartly share a condolence with people who has lost their beloved member families and friends.  We, as Japanese citizen, are standing by you, France for peace. We also wish safety and peace recovery for  the people of Mideast Asia from the fierce scruteny and terror dominance by  illegitimate power.
今たび、パリにおける無情なるテロリズムによって傷を負われた方々にお見舞いを申しあげます。また、不幸にして凶弾によって尊い命を落とされた方々を悲しみ、そのご家族やご友人に 心から哀悼の意をささげるものであります。私をはじめ、日本市民は、この無辜のひとびとへの無法残虐を憎むものであり、平和と安全ためにフランス市民とこころを共にするものであります。
また、恐怖支配下にある中近東アジアの無辜のひとびとの平安安寧を祈ります。

 

 

 

朝日記131118 戦勝国が負ってきた安全保障からの請求論理と、今日の絵

$
0
0

朝日記131118 戦勝国が負ってきた治安保障からの請求論理と、今日の絵

 

(邪を祓う不動明王)

徒然こと 戦勝国が負う負の遺産というのはあるであろうか。

 数年前に、東工大の橋爪大三郎さんの理論社会学コースで「戦争社会学」というのを聴講しました。「戦争」の定義で、国家主権のあるものどうしの政治的手段行為のひとつであるという、したがって、戦線布告とか、講和などのルールがあるというものです。 捕虜の扱いや。毒ガス禁止などもそうです。
テロリスト集団にたいして、相手側が国家主権を認めないと、「戦争」ということにならない。答えは、主権を持たない相手は単なる平和破壊者(「犯罪者」)として、主権保有者からの治安(警察)行為として、追及をうけるという構図でしょうか。 ところで、「犯罪者」側が優勢で
ある場合では、主権保有者側が、やむなく停戦や降伏の交渉にありますが、この場合は、「犯罪者」の衣はきえ、「主権者」として認知を獲得して、はしめて「戦争」ルールの交渉となる。
 ところで、9.11のときブッシュ大統領は、これは「戦争」であるといいきりました。ところが、アフガニスタンの政府への戦いではなかったですね。アルカイダという「犯罪者」への戦い(治安行為)であったということになりますが、どうでしょうか。この場合、アメリカ合衆国の国内法で警察行為ということになるのでしょうか。全体として、アルカイダや、ISとは「戦争」ではないということになります。
実際には、両方がみとめる「権威」による、仲介というのもひとつの答えですね。
価値の共有化が見出されえない、交渉のベースが見出されないという点ではまさに、「共約不可能性」(incommensurability)の代表的問題です。 無辜の民は、たまったものではありません。 一般論からいうと、国家主権の不在の状態までに至ってしまった状態での人民には、救いがありません。
 したがって、難民となります。 難民問題で思い起こすのは、ローマ帝国末期にたびたび起きた帝国領内へのゲルマン民族の難民の大移動や凶暴なバンダルなどの武力進攻をおもいおこします。 うっかり武器を携帯してローマ領内に入った結果、滅亡を一気に加速したことを、ギボンの本の記述から、おもいだしました。 ここまで、くると結局、腕力が第一義的な手段です。つまり武力紛争でいけるところまでいく。 集団安全保障での選択意志の明示が必須条件となります。
 ところで、我が国の戦後70年間は、戦争にまきこまれなくてきました。いろいろ見かたがありますが、1.歴史的には、まれにみる戦勝国の寛大さにより、領土問題をのぞけば、日本が戦争賠償など負の遺産が軽かったこと。2.当然ながら。戦勝国が、従属側を保護する負荷という負の遺産から免れたということ。(イギリスもフランスもこの負担がおおきいです)。 もうひとつあるとすれば 3.安全保障のただ乗りです(これについてはの「運賃の精算」のかたちとしての「つけ」が、多分あらわに申しだてられる。 押し付けられたにしても、「つけ」は「つけ」で、憲法9条からの「つけ」です)
 近代国家の民としての、自らが人類への貢献理念の発露として、世界平和への理念明示的にして、ルールや制度への構築先導的なコミットメントをせずに、つつましく言われたことを負担するということは、それはそれなりに貢献とはいえますが、「当事者」あるいは「幹事役」にはならず、ただ乗りとはいわずとも、気の利かないなかま、おいしいところだけをとる輩というの部分があったのではないかという見方で、そういう見方からくる評価です。TPPなどは、まさに歴史的転換点となって、現前としてこの国のもつ先導的姿勢が課せられてくるとおもいます。 
ということで、いつまでも、Big btotherの背中に隠れているわけにもいかないというのがこれからのこの国であるということになります。
 オバマ氏が、中途半端な平和主義により、既存の秩序が崩壊したとみています。 ながなが、述べましたが、世界史的な転換のうねりを感じます。

つれづれこと おわり

(NwwYork Times International, 2015.11・14)

 

朝日記151118 「理想国家」について と今日の絵

$
0
0

朝日記151118 「理想国家」について と今日の絵

みなさま、おはようございます。
夜来の雨があったらしくベランダの床がぬれています。
今朝は、深い霧が張っています。
最近、血圧を測りだして、今朝は高いのでおどろき、家で体操しました。昼間はほどほど、やや高めですが、時に体の姿勢に不整合があったかなと訝ることがありました。また血圧降下のくすりをもらいにいくことにします。
(冬日 I)


徒然こと 1 「戦勝国の負の遺産」について

*敬愛する友人Nが、弔意の英文表現で、筆者のものをご参考にされた由。恐れ多いことです。 3・11のときの英字新聞の弔文を参考にして そのときの音楽会絵画の形式でHP上で弔意を表明したことがあります。そのときのものを探し出して参考にしました。 シリアの無辜の民のことも、触れないと、いけないですが、あまりくどくどしていると、弔意が薄まってしまう懸念もあります。
*facebookでトリコロールを張ってある人の画面の上をクリックすると「試し」というのあって、これから、期間指定で、自動的に自分もトリコロールにそまるという仕掛けですが、考えましたね。

(冬日 II)


*戦勝国の「負の遺産」についてですが、ところで、アメリカは 何のために戦争したのでしょうかね。世界国家(ローマ帝国のような)になったことの国としての価値(指数、もしあれば?)では 帳尻をどう評価することになるのでしょうか。 自らの建国を民主主義理念による「理想国家」への起点とした、その展開の帰経点であったと理解しているのでしょうか。そういえば、一方の「理想国家」のソ連は、いまは消えましたが、こちらの方の末裔たちは、たとえば、ロシア、中国の歴史家たち、それに日本共産党の理論家たちはどう歴史的評価をしているのでしょうか。そんなことを思わせました。
*きのうの朝日記に、NYTからの漫画をスケッチしたのをのせました。日本国憲法第九条という条文のみえる紙の上に
あまり冴えない素足がのるというものです。
これから、ふたつの連想が交錯しました;
ひとつ、他国の足である。
ひとつ、自国の足である。
意味は、逆になります。

徒然こと 2 畏友からのメッセージ

~~~~

 フランスへのテロ攻撃については、わたくしは若干、日本の一般的な世論とは異なる理解をしています。

不埒なテロ集団が、一般大衆の殺戮に狂奔しているという見方ではありません。 フランスが、宣戦布告せず、また、シリア政府の要請も、国連決議もなく、勝手にシリアの反政府勢力がいそうなところを空爆したことから、反政府勢力とフランスの戦争が始まっているとみています。
この戦争の終着点は、ヨーロッパの白人勢力が、シリアと周辺のムスリムを殲滅する以外に、思いつきません。 終戦交渉をする本体も見当たりません。 
ムスリムの国で、国としての体裁も整っているトルコ、サウジがシリア利権を狙って何をしてきたか、また、フランス、イギリスが何をしてきたか。 さらに、アメリカ、ロシアが、これまではどっぷりとつかっていなかったけれどこれからは、どれくらい入り込んでくるか・・・・・・予想もつきませんが、着地点が見えないことは恐ろしいことです。

私は、パリの事件は、単なるテロとは思えません。
そして、この攻撃を受ける前にフランスが、シリアに対して行ったことは、これくらいの報復では済まないだろうと思っています。 だから、もっと報復すべきだなんてことは、思っていませんが、膨大な憎悪のマグマがたまる状況だと思います。

ドイツに流入したシリア難民が、武装蜂起してフランスと戦うというのが、ヨーロッパにとっては一番恐ろしいストーリーではないかと思います。

私の予想が外れて、このまま、平穏に次のステージに移ることを願います。

~~~~  徒然こと 3   数年前に、東工大の橋爪さ大三郎先生の教養コースで「軍事社会学」というのを聴講しました。「戦争」の定義で、国家主権のあるものどうしの政治的行為のひとつであるという、したがって、戦線布告とか、講和などのルールがあるというものです。
テロリスト集団に国家主権を認めないと、「戦争」にということにならない。答えは、主権を持たない相手は破壊者(「犯罪者」)として、主権保有者からの治安行為として、追及をうけるという構図でしょうか。「犯罪者」側が優勢で
ある場合では、主権保有者側が、停戦や降伏するばあいは、
「犯罪者」の衣はきえ、主権者として認知を獲得して、はしめて「戦争」ルールの交渉となるのでしょうか。
9.11のときブッシュ大統領は、これは「戦争」であるといったとき、アフガニスタンの政府への戦いではなかったですね。アルカイダという「犯罪者」への戦い(治安行為)であったということになますが、どうでしょうか。この場合、アメリカ合衆国の国内法で警察行為ということになるのでしょうか。全体として、アルカイダ、ISとは「戦争」ではないということになります。
両方がみいとめる「権威」による、仲介というのもひとつの答えですね。
価値の共有化が見出されえない、交渉のベースが見出されないという点ではまさに、「共約不可能性」(incommensurability)の代表的問題です。 無辜の民は、たまったものではありません。 
難民問題は、ローマ帝国末期のたびたび起きた帝国内へのゲルマン民族の難民の大移動やバンダルなどの武力進攻をおもいおこします。 うっかり武器を携帯してローマ領内に入った結果、滅亡を一気に加速した。ギボンの本を記述をおもいだしました。 ここまで、くると結局、腕力が第一義的に必要で、つまり武力紛争でいけるところまでいく。
意志の明示が必須条件となります。
70年間、戦争にまきこまれなくてきました。いろいろ見かたがありますが、1.歴史的にはまれにみる戦勝国の寛大さにより、日本が戦争賠償など負の遺産が軽かったこと。2.戦勝国が負う負の遺産から免れたということ。(イギリスもフランスもこの負担がおおきい)です。 もうひとつあるとすれば 3.安全保障のただ乗りの「つけ」がのこされている。(憲法9条からの「つけ」です)
自らの理念の発露で、世界平和へのコミットメントをせずにこられたということは、ただ乗りの部分があるのではないかという見方です。 
いつまでも、Big btotherの背中に隠れているわけにもいかないというのがこれからのこの国であるということになります。
 オバマ氏が、中途半端な平和主義により、既存の秩序が崩壊したとみています。 ながなが、述べましたが、世界史的な転換のうねりを感じます。   徒然ことおわり    

朝日記151124 絵の整理と 素描美人の音楽絵画 と今日の絵

$
0
0

朝日記151124 絵の整理と 素描美人の音楽絵画 (No.271と No272) と今日の絵

おはようございます。
夜来の雨であったのでしょうか。霧で靄っています。
きのうも、今朝もラジオ体操は家でしました。
血圧がやはり高いので 要注意です。この春あたりから、血圧の薬をやめているので影響が出ているとみます。明日は高齢者健康検診でいつものお医者にいきます。
 きょうは、大学の図書館に貸出の延長に行ってきます。


モールのサンタクロース

徒然こと Croquis Beautyの音楽絵画 272

人物素描のスケッチ会は2010年に参加して 月2回町田の版画美術館の会場に かなりコンスタントに通っています。
年に一回 クロッキー展があり、出展をしています。
スケッチ会では、私は、A2サイズの50枚のクロッキー帳を主力に使っています。これを写真にとり、あとはデジタル化します。 音楽絵画や朝日記ブログに使っています。
このロールの巻数が25(1300点程度)を越えて、手狭の家の空間で、さすがに放っていくわけにもいかず、きのうは意を決して整理にとりかかりました。各巻5点くらいを目安に、心を鬼にして臨みました。
 選ぶとなるとなかなか鬼になりきれず、情が曳きます。結局 2割程度になりそうです。結局 6本のロールになりました。残りは、資源ごみとして出しました。螺旋のワイヤを外さないと資源ごみとしてはリジェクトされるので、手間取りました。
絵そのものは作業のながれで選別して、さよならの絵で捨てるがわに入ったのはかわいそうでした。そのうちに気にならなくなりました。二日かかりました。
習字の太い筆で2分描きのに象形的おもしいものがありました。「骨描墨汁」というえらい乾燥のはやい墨汁が早描きのペースに対応してよかったです。 柳の木炭線画でドライパステルで色を添えたのもよかったとおもっています。
 2010年 6年になる素描の特徴がそれとなく感じられておもしろいです。 4年目の終わりころ (2013年)にある変化がみられました。 デッサンにある習熟の一段階があったのか、線におもしろさを感じました。 毎回、2点ほど頭部(顔)を画面いっぱいに描きます。これを音楽絵画No.271とNo.272としてUploadしました。

(次の行をクリックください。)

https://www.youtube.com/watch?v=GtDLckB_mro&list=PLJ-2JTwLfCf1zcYIfIjLMGECbylnmuhp-&index=2

この6年間のクロッキーのセレクションした6巻から、本年文を撮影して、デジタル化しました。 これを音楽絵画にしますが、とりあえず、頭部(顔)の素描をCroquis Beautyとして音楽絵画にしました。オリジナル版とヴァリエーション版をいつも作っていますが、シューベルト さすらい人Der Wanderer(1994荒井演奏)とし、後者は、シューベルト‐リストのピアノ 水の上でうたう Auf dem Wassar zu Singen(YouTube提)です。
今週末は、五月来ご無沙汰していた箱根 板里の弟のところで、絵描きの逗留をします。 出展用にすこし大きめの画材を用意します。
徒然ことおわり

 

朝日記151127 ハイデガーの「存在と時間」を読む、そして今日の絵

$
0
0

旧約の女性ルツ

 

朝日記151127 ハイデガーの「存在と時間」を読む、そして今日の絵

 こんばんは。 寒くなりました、居間のガスストーブの火入れをしました。

  

徒然こと ハイデガーの「現存在」と サールの「制度論」

たとえば、(私)が、自分のいま目のおきどころとして、ある歴史的な事態について、思弁的な理念や思想を先行させずに、極力意識を冷静にして、それを自分の次元として身をおき、その事態について、周囲も了解している程度のおおまかな存在(「存在了解」)をみとめ、それに関心をおくとします。その事態の持つ意味を、自分自身の「関心」のもと(これを「現存在」とよぶようです)でその存在を「現象」として調べ上げていく。その筋から把握する「存在」を、ハイデガーは「実存」というひとつの範囲の存在としています。(正確には(私という)存在者の存在という難しい表現となます。) そういう意識活動を「解釈」とよんでもいます。 こういう立場で歴史をみていく姿勢を 歴史の「解釈学」的な立場と、この私は理解しました。 ここまでくると、目の前にでてくるのは、「Institutive」という概念です。ハイデガーは哲学(形而上学)として、この存在把握が理念に先行する基本として、哲学の歴史的転換を喚起しました。それゆえに、カント以降の巨人、二十世紀を代表する哲学者の評価を得ています。しかし、かれは 人間の実践については、哲学的構想はあったようですが、記述では道半ばであったようです。 そんなことをおもいつつ、軽率のそしりをあえて甘受して、彼の用語を 以下のような読み替えへ試みてみました; 「現存在」⇔ agent⇔commitment , 「実存」⇔ institution⇔concernです。このような置き換えをすると、彼の論述が、見えてくることに気が付きます。 多分、彼はそんなとらえ方をしていなかったとおもいます。 なぜ 勝手に、このような置き換えをしたかというと、「解釈」という「知る」次元から、目的(性)への設計のような「行動」次元への展開が、必然的に、こちらの意識が、要求してくるからであろうと考えたからです。つまり Institutive(日本語の訳は「制度(化)」でしょうか)へとつなげたいというものです。 別にハイデガー贔屓になることもありませんが、Institution とくにSocial Institutionの概念に、彼、ハイデガーの哲学的根拠につなげると、概念に見通しがよくなり、思考に厚みを加え、たとえば、個人、家族、社会、政府、言語、学問など 具体的な取り組みの意味を与えることになると理解しました。 尊敬する知人が評価されておられるスタンフォード大学の賢人サールSearleや、その盟友の青木昌彦の動的な制度論に積極的な意味を見出したようなおもいで、楽しみです。 特に、TPPなどは、これから多元文化での価値の共約化(incommensurabilityの解消)問題に、異なる価値、文化背景からくる事態を、現象として、徹底的に考えぬかれ、問題の意味をくみ上げた丁寧が制度設計(Instituting)が必要になるからです。大な困難なことですが、基本は、そういう意味での民主主義社会としての叡智と行動への国民的な活性化の構想が必要でもあります。 

さて、たまたま、件の知人からの、石原莞爾の解説を読みました。

http://www.mskj.or.jp/report/2803.html石原莞爾の思想 -歴史というダイナミズムの捉え方」源馬謙太郎/

 彼は天才的man of institutionであることを理解します。 一つだけ残る課題としては、社会の活性化過程としても、天才的な頭脳(つまりエリート)の存在の圧倒的な重みです。結局、かれらが、敵味方で対決する形で、全体としてのInstitutionを支配する場合です。 制度とはそういうものですが、問題は、それが秘密裡に進行し、民主的な開放(Openess)に置かれない状態へと、制御外へとつながっていくことへの懸念はのこります。抑制・容認(Sanction)の機能性の確保を如何にするかです

(旧約の女性 Aminadab)

Viewing all 1196 articles
Browse latest View live